モネ展に行った時の回顧録
横浜美術館のモネ展に行った。
行った時に感動して記録を残しておきたい!と奮起しこのブログを立ち上げたのに、書かないままおよそ三ヶ月経った。
忙しかったのか?と言われるとまあ私にしては忙しかった。昔から興味があったジャンルに金と時間をかけるようになったし、ビビリなので授業にまじめに出ている。
しかしそれ以上に家にいると何も出来ない。この記事だって課題がまったく終わってない移動中に書いている、馬鹿か?
ともかく思い立ったが吉日。今日から書いていこう。
前置きが長くなった。私は正直印象派は好きでモネ自体には興味があったが、モネ展は行く気がなかった。フライヤーにそそられなかった。モネの作品以外にも展示が多いことは分かったが、何が展示されているのか抽象的すぎてそのために入館料払うのは、微妙だなと感じていたのだった。ごめんなさい。
会場に入って迷わずボイスガイドを手に入れて周りを見回した。ひ....人が多い!
入り口はモネの作品ばかりであった。混み時に到着した私も悪かったが、あまりにも気が滅入ってしまいボイスガイドを聴きながら、別のエリアに入っていった。
なるほど、他の作品というのは現代アートだったのか、無知な故にフライヤーの作家名だけではよくわかっていなかった。ボイスガイドには櫻井さんの他に作家本人が解説をしているトラックもあった。
ここに驚いた。作家たちが何をもってしてどのようにモネを噛み砕き自分の中に取り込むのか。モティーフの引用だけではない深い解釈、その一部をのぞいているような感覚。鑑賞者と作家が作品を通して対面しているようであった。
近代〜現代アートの展覧会に何度か行ったことがあるが、いつも見に行くと私は自分で自問自答に陥ってしまうのだ。これは一体なんなのか、私が抱いた作品に対する感情は合っているにだろうか、何を伝えようとしているのか、どこに背景があるのか、自分の知識不足ではないのか...
友人と一緒に会場を後にするとき「むずかしかったね」と口にする。アートは本当にむずかしくなっている。と私は思う。むずかしいから高尚で荘厳なものと読み取るか、取るに足らない無駄なものと切り捨てるかの二極化に私の中で分類される。デザインが身近になっているのに、アートは遠のいていく。追いかけなければ、触れることすら叶わない感覚だ。
モネ展はそういうモヤモヤが解消される糸口を見出せる展覧会だった。19世紀という現代アートに近い時代の作品からの変容をつなぐような展示であった。作品の文脈を渓流から下り大きな河川にたどり着く自然教室のようなツアーガイドの役割をボイスガイドが担っていた。一人で山を下るには道がなくて難しい。水のせせらぎに耳をすませ私たちの生活地域まで落とし込む。
勿論、ガイドによる鑑賞者の感動の操作がなされるという論もあるかもしれないが、今回はこの話題は置いておく。
現代アートを感じる、考えるキッカケになるような展覧会だった。私は大満足した。
書いてて恥ずかしくなってきた。私はまだ無知で専門家でもなんでもないから、このような感想を持った時に尻込みしてしまう。でも、書いてみないと何も磨かれない、心に溜めているだけでは意味がない、のでこれからもトンチンカンな文章を書く。